宇宙飛行士を妻に持つと [徒然・・・]
ウィキペディアでもメディエーション [徒然・・・]
「ケース・マネージャー」について理解するために何か手掛かりはないかと、ウィキペディア(wikipedia ネット百科事典)で「case manager, mediation, wikipedia」と入力したら面白いものが出てきました。Wikipedia 利用者間の紛争解決のためのメディエーション斡旋(Request for mediation)サイトです。具体的にどういう紛争があるのか・・・誰かの書いたことは嘘だ、とか・・・??? 記事の内容に関する争いのみが対象になると書いてあります。 ウィキペディア(wikipedia)はご存じのように、誰かが勝手に書いて、また他の誰かが手を加えることもできる、利用者(user)が作る百科事典・・・で正解でしょうか? メディエーションが取り入れられていること、メディエーションについても無駄なく説明されていること、すごいな~・・・と、感動でした。日本でも早くメディエーションがもっと身近なものになって欲しいと切に思います。(http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Requests_for_mediation)さらっとしか読んでいないのですが、その中で受け付けられないケースとして「“まずは、コミッティに訴えよう”というのは止めて下さい。」とありました。関係者全員がメディエーションに参加同意すること、話し合ったとか、色々試したけれど合意できず、両者とも何とかしたいと思っているケースに限る、というように書いてありました。
確かに、私の数少ない経験からですが、どちらも「何とか解決したい、でも、どうにも行き場がない」と感じているケースでは、メディエーションは本当に効果があり、今までが嘘のようにさ~っと糸が解けていく、と感じています。 プラス、やはり「草の根の会」では、市民活動が果たせる大事な領域として「拗れる前に早期対応を」を呼び掛けていくつもりなので、「まずは、相談していただきたい」を掲げていく方針です。
日本語も国際化・・・その2 [徒然・・・]
日本人と外国人、かつては外見もはっきり違いました。ですがWELLでいろいろな女性達と知り合い、今では日本人だの外国人だのとそう簡単に仕分けられるものではない、と感じています。で、思いついたのは日本語が主言語の「日本語人」と英語が主言語の「英語人」という呼び方です。発表者は日本語でする人と英語でする人で分けバランス良く・・・。見かけはやはりほぼ日本人と外国人でした。ところが、今年はなんと、8人中7人がご自分でバイリンガル発表してくれます。外見の内訳は東洋系2人と西洋系6人です。前回の記事のTさんのこともあるし、 ここまでくると、日本人だの外国人だの、って分けることはないじゃない、と言いたいです。
《在日東洋系の方、特に2世代目以降の方は言葉も完璧日本人ですし(他言語はできないという点でも)、タイ・フェスティバルに行くと、話している言葉を聞かなければタイ人と日本人と区別がつきません。こんなことも・・・子供がまだ幼い頃、家族で韓国に旅行した際、何度か韓国語で声を掛けられました。「あなたたちどこから来たの?」 夫がにわか勉強の下手くそな韓国語で「日本から来た・・・」と答えると、人々には私達が在日コリアンだと映ったようでした。「よく(帰って)来たね~・・・」風に温かく迎えて下さいました。》
日本語も国際化・・・その1 [徒然・・・]
バルセロナから電車で2時間ほどの所に、ダリ美術館のある町があります。そこに行くための私達の出発点の駅は新しくはない地下駅で、ホームに出てから、その日は祭日で電車が一時間に一本しかないとわかり、しかも、丁度出たばかり、つまり、地下ホームで1時間待つことになりました。その間、「アメリカの洋服は縫製が良くないからアメリカ映画のヒロインの服のようにすぐ破れる、それに比べて日本のは優れている・・・」から始まって、娘と露骨な(下着の)パンツ談義に至り、けたけた喜んでいた私と娘。たまたま隣に腰かけていた外見からいかにも西洋人と思われる二人の若い女性と目が合ったところから、会話が始まりました。アメリカ人で、私達と同じ電車を待っていて、「(自分達も)早く来すぎた。結婚していて、夫は仕事で来れなくて、自分達だけ楽しんでいる、夫には悪いけどね・・・」 そして、1人が「実は私の夫は日本人なのよ。(私達)福岡に住んでいたの。今はカリフォルニアだけど・・・」 ぎくっ!
ホテルの食堂で、バスの中で、「日本の方ですか?」と流暢な日本語で声を掛けられることが多くなったここ何年か・・・、なのに、またやってしまった。大きな声で・・・赤面でした。しかしながら、地球上のこんな小さな国なのに、日本に住んだことがあったりする人がいかに多いことか。 クレジット・カードで支払うときに日本人とわかるとパスポート・チェックなし(今回のバルセロナ)とか、日本や日本人に対する評価はダントツ高いと感じています。足を引っ張らないように、お行儀に気をつけなくて・・・。苗字で呼ばれたい [徒然・・・]
日本人とかはPTA仲間とか比較的に親しくても「佐藤さん」とか苗字で呼び合うけれど、欧米人とは知り合うとすぐに、「アン」などのように、名前で呼ぶのが一般的・・・じゃないですか? 特にアメリカ人はフレンドリーじゃないと失礼だとかで、親しくなくても気さくに名前で呼ぶのが良いと聞いたことがあります。一方イギリス人には、かつての階級制度の名残なのでしょうか・・・教師と生徒、上司と部下のような関係など、親しくもないのに気軽に名前で呼んではいけない/呼ばれたくない、という方も多くいらっしゃるようです。
日本人の妻となり、ご自分の日本姓を大切にしているドイツ人の友人がいます。この友人は、普通に名前で呼んでいたら、日本人同士は苗字で呼び合っているのに、自分は何故、名前なのか、苗字で呼んで欲しいと、要望しました。私の場合は日本人同士でも、親しくなると名前で呼び合うこともあるし、親しみを込めて「アン(仮名)」と呼びたいのですが、この友人には「外国人扱いされてきた」ことへの強い疎外感のような思いがあるようで、外見が違うだけで他の日本人と何も変わらないんですよ、と強く訴えたかったのでしょう。APMFのワークショップで、メディエーションを始める前の確認事項として、「名前をどうお呼びするか」「当事者さんは相手にxxxと呼ばれたくない・・・」などという名前に関わる項目がありました。幼馴染だった当事者さん同士が、紛争に入って、相手に親しく名前で呼ばれたくなくなる、とかは考えれられました。それ以外にはあまりイメージが湧かなかったのですが、この頃、確かに、いろいろあることを実感しています。
もしかして電車マニア・・・かも [徒然・・・]
朝、最寄駅でホームに降りるとホームの先端で4人ほどカメラを準備して待ち構えている人々が・・・。 「何が来るのかな~」と待っていると、ノスタルジックな色と形の特急電車が「プーポー」と汽笛を鳴らしながら通り過ぎて行きました。「わ~、かっこいいな~」 興奮している自分を発見。 そう言えば、多摩川にかかる橋を電車が連なって過ぎていく時も、駅構内で新幹線やら何やらが並んでいるのを見る時も興奮していました。 お台場に行く「ゆりかもめ」がレインボーブリッジに入る前にループ状にカーブする時も、わくわくします。私は、もしかして電車マニアなのかもしれません。 というか、 同じ物が繋がって動くことに刺激されるようなのですが、一体何なんでしょう? ちなみに蛇とかひょろ長い生き物は非常に苦手です。
ところで、高尾山ですが、関東平野に住む人にとっては、誰にとっても手頃なレジャーを楽しめる場所なのでしょう。ミシュランでランク付されてからは、昨今の深刻な不況も受けて、お金のかからないハイキングを楽しもうと目に見えて訪れる人が増えています。どこもかしこも渋谷・原宿の比ではない混みようです。
この頃は、流石にハイヒールの女性は見かけなくなりましたが、100メートルも登らないうちに、疲れた~、と音を上げる子供の声があちこちで・・・。もしかして私もその仲間・・・。
高尾山の私のお勧めは、上りは頑張って歩き、帰りはリフトで降りる、です。途中の見晴らし台は狭い場所だし、木が生い茂っているのであまりよく見渡せませんが、リフトからの眺めは素晴らしく、とても気持ち良いです。木々を同じ高さの目線で楽しむこともできます。 お弁当はご持参なさるのが良いでしょう。食堂はどこも長蛇の列でした。日本でもいよいよチェンジ!? [徒然・・・]
世界を支配しつつあったアメリカの好戦的でマネー経済偏重と思える保守政権から(比較的)平和友好路線へのチェンジに始まり、日本でも、戦後の日本を支配してきたアメリカ追随型現政権が崩壊寸前の様相を示し、目に見えてチェンジが始まっていると実感できるようになりました。選挙(民意)と言う形で成される政権交代は、つまり、人々の意識の変化であるわけでとてもうれしいです。縛りが解けたように、人々が正直な思いを素直に言葉に出すようになってきました。 本来日本人が持っていると思われる「創意工夫」 が息を吹き返し、さらに進化して、当たり前のように「win-win」を意識した工夫があちらこちらで見られるようになってきました。 素適なことです。少し息が楽になりました。
少し・・・だけなの? 積り積った「疑心暗鬼」(紛争の元)はそう簡単には消えません。新しい政権が感じているように、今、やっとスタート・ラインに着いた・・・ところです。 草の根のメディエーションは、この勢いのついた動きをさらにエンパワーすべく頑張ろうと思います。 (*創意工夫:ブレイン・ストーミングと言った方が分かりやすい方もいらっしゃるでしょうか)
そこが変じゃない?「水戸黄門」 [徒然・・・]
時代劇好きだった父の影響なのか、私も時代劇が好きで良く見ます。中でも、夕方の時間に何度も繰り返し放送される水戸黄門を「これ、前にも見た」 と言いながら同じものを何度も見て、飽きずにまた見れる、というのは何なんでしょう? 昔家来だった役者さんが、今、黄門様を演じているのを見て、出世したのもね・・・と、現実なのかドラマでのことなのか、混乱しながらも感慨深く感じるのは何なんでしょう? 正しいけれど弱い立場に置かれている人々にはどうにも太刀打ちできない極悪権力をバッタバッタと切り倒してくれる小気味良さが快感なのだと思います。各地の名物が話に盛り込まれるので、ちょっとした旅番組であることも、魅力なのかもしれません。
しかしながら、最近、気がついたのです。「助さん、角さん、懲らしめてやりなさい」の決め台詞で始まるたちまわり。勿論、悪党は最後に切られるか観念するのですが、その前に、家来がどんどん切られ、(多分)死んでいきます。この時代、家来たちは主君の良し悪しに関わらず、主君に忠義を尽くすことを余儀なくされています。刀を抜かないわけにはいかないわけで、彼らの落ち度でもなんでもないのに、なんで、懲らしめられて切り捨てられるの・・・? 変でしょう? この上下関係って今の世の中でもあまり違わないではありませんか!? むしろ、主君はお咎めなしか、あっても軽い。やっと最近ですよね、主君もちゃんと罰せられるようになってきたのは。 このことをこの私が極最近まで気がついていなかった・・・、つまり多くの人が全然気にしていない、ということです。 (自分が至極一般的な人間だと思っています…思いこみ?) 「水戸黄門」を喜んで見ているうちは、日本はあまり変わらないのかも・・・・・と悲観しながらも、この間、また再放送を最後まで見てしまいました。続けることが大事 [徒然・・・]
我が家から駅周辺商店街とは反対の方向、住宅が並ぶ中に立つマンションの一階に小さなパン屋さんあります。とても狭いスペースですが製造から販売までそこでやっています。売り場の通路はお客さんが5人も並ぶといっぱいです。お値段はかなり押さえられていて、でも、美味しい。丁寧に作ってあります・・・4人の若者が脱サラして始めたとか、若い方々の誠意と努力が空気になってあふれているようなお店で、おばさんは秘かにお応援しています。時々朝、何もめぼしい食べ物がない時に買いに行きます。
一時の小麦粉の高騰で値上げ、リーマンショックのあおりもあり、お客さんも減って、いつも中で働いていた顔が一人二人と消えてしまった時期を経て、この頃は、値段も戻り、いつもお客さんがいて盛況です。
その店にいく途中、歩行者専用道路になっている道に面してこれまた小さな床屋さんが店を出しまた。道路面は全面ガラスなので中の様子がよく見えます。パンを買いに出て、歩きながら、つい、何気にちらっとその店を見てしまうのですが、「お客さん、来ないかな~」と暇そうに外を見つめるご主人と、どうしても目が合ってしまいます。 今日も誰もいない・・・いつまで続くかな~と、内心、他人事ながら気にしながら、最近は私もいたたまれなくて見ないようにしていました。 で、数日前、久々にちらっと眼が行ってしまって、思わず ”しまった”と思ったのですが、何と、おじさんは誰かの頭を刈っている、それどころかもう一人待っているお客さんまでいました。 良かったです。続けることが大事なのですね。日本でも“change”? (11月29日) [徒然・・・]
何が画期的かって、この番組は決して非難の「含み」を持たせていないと感じたからです。(私なんかは多分に含んでしまいます) 表現が・・・遠まわしな発言とかではなくて、極めてストレート。 例えば石原都知事の大学生時代を紹介したドキュメンタリータッチの映像なども、何の説明もいらない、現代社会が抱える問題点が如実に浮き出てくる・・・と私は感じました。critical thinkingの爆笑問題と監督してのたけしさんの手腕でしょうか・・・。
長い番組でしたが、一般参加者の声を聞く機会はあまりありませんでした。ですが、有名人ゲスト、例えば、アントニオ猪木が十八番の「夢を持て」との発言に学生が「そう、言ってほしくない」。最近子供達は、したいことはあるけれど、夢を持てと言われるのを嫌うらしい。今の社会の現状を見ると、もっともだと思います。この番組がすごいと思ったのは、通常なら対立させ、視聴者は言葉の応酬を面白がってみるのだけれど、ここでは、相対する見解を出して/出たところで、次に移ってしまう。でも、番組はゲストにしっかり敬意を払うことも忘れてはいない、と私には見えました。
冒頭で視聴者を含めた全員に質問が出されました。《線路が二股に分かれる切り替えポイントにあなたは、立っている。今、列車が来ていて、その先で5人が気付かずに線路上で作業をしている。そのままだと、彼らは列車にはねられる。もう一つの線路では一人の作業員が同じく気付かずに働いている。》 ここで、いつもなら、「さあ、あなたならどうする?」となるところだけれど、この番組では、「子供にどうしたら良いか聞かれたら、あなたなら、子供にどう答えますか?」 ・・・・・・どうでしょう?
まさにalternative, 今までとは違う視点、発想です。正解なんてないですよね。 yes or no ではなくて、どっちが良い/悪いでもなくて、現状をストレートにとらえ、第3者的な目で(冷静に?自分だけの利害関係ではなく?)問題は何か、課題となるべくは何か、その解決にそれぞれ自分にできることは何だろう、考えてみようと提案した・・・と私は解釈します。最後の締めは、3知事と司会3人の6人が、「自分は自分の何を変えたいか」をそれぞれパネルに書いて発表し終わりました。「(他者の)何が変わるべきか」ではなくて、「自分は何ができるか」です。
ちなみに、石原都知事は学生時代は美術学部で、その時代の作品は、テレビの画面を通してでも際立ってシュールで、引きつけられるものでした。彼は、権威主義や社会のエリート価値観を、書物の中で「こんなくだらないものが世の中にあるか!」と痛切に批判し、1年間大学に行かなかったそうです。 知事になられてからのドキュメンタリーもあったら、どうだったでしょう・・・?