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”うちのママは世界一” [草の根的メディエーションのつぼ]

自画自賛しようというのではありません。日本の家庭にテレビが普及し始めた頃、まだ“児童”だった私が毎週楽しみに欠かさずに見たアメリカのホームドラマのタイトルです。その当時は、テレビはみんなが茶の間(リビング)にいる時間帯だけの放送でした。思えば、このホームドラマが私の最初の”アサーティヴ(assertive:自他共尊)“との出会いでした。

ここのうちでは、親は子供に普通に「ありがとう」と感謝し、普通に「ごめん」と謝っていました。さらに、親が子供に何か頼む(させる)時に、ここのうちでは、「お願い-please」と言うんです。自分はどんな人も「 I 」、相手は、これまたどんな人でも「 you 」。第三者は「 he 」「 she 」 「 they 」。 そこには上下関係も力関係もありません。その当時うちのあたりでは上の者から下の者に対しては、「頼む」のではなく「させる-命令」で服従を余儀なくされるものでした。子供(下の者)の反論は「口応え」で悪しき行ない以外の何物でもなかった時代でしたので、子供の私にとって、さぞかし大きな衝撃だったのでしょう。毎回食い入るように見て、白昼夢とでもいうのでしょうか、この世の別世界に思いを馳せ、「大きくなったら外国に住む」と夢見るようになりました。まだ小学生でしたが、中学生だった兄の英語の教科書で英語の勉強を始め、学校の図書館でいつも写真付きの「世界の国々」に見入っていたのを覚えています。そして、“求めよさらば与えられん”、幸運にもチャンスを与えられイギリスに住むことになりました。

(私的にはまだ寒くて春がきているように感じていないのですが、もう待ちきれないので今日から春バージョンです。春を代表する花、私の大好きなチューリップです。)


アサーティヴ:自他共尊 [草の根的メディエーションのつぼ]

21日の勉強会の報告です。女性4人でアサーティヴ(assertive)について話あいました。メディエーションに関しては上手なメディエーターであるために、個人的には人間関係の紛争回避のこつとして、アサーティヴであることを不可欠な要素の一つに入れています。因みに、私的に不可欠な要素は大きく分けて三つあります。

1.アサーティヴであること (be assertive)

2.プラス思考であること (be positive)

3.公平/公正・中立であること(be neutral/multi-partial with justice

今回は1番の「アサーティヴ」がテーマです。去年まで国際関係論系を教えていた友人が、自分のクラスでこの「アサーティヴ」について取り上げた際に使った資料を引用させてもらいます:

(passive)受け身/言いなりのコミュニケーションとは、自分の権利や正当性を主張できず、相手(他の人)に無視されてしまうコミュニケーション。

(aggressive)威圧的で自己主張だけが突出するコミュニケーションとは、他の人の性格(人格)や意見を攻撃しながら、自分の意見を述べるコミュニケーション。

(assertive)アサーティヴなコミュニケーションとは、相手の意見を尊重しながらも自分の正当性(権利)を主張するコミュニケーション。  

どうしたら、自分と意見や価値観が違う人と、うまくやっていけるのか・・・有る人が自分にとって困るような行動をとったら、私たちはどう伝えら良いでしょう。自分たちの中にある食い違いをどう解決したら良いでしょう。「攻撃的」になるか「受身」になるしかないように思える昨今ですが、「攻撃的」でもない「受け身」でもない別の(alternative)の姿勢が「アサーティヴ:自他共尊(と訳してみました)」です。“Win-win” を心がけるもので、どちらも譲ることなく、人格を認められている、聴いてもらえている、と感じるものです。 アメリカでは、フェミニスト運動と共にassertiveについての議論や教育が盛んに行われたそうです。人種差別や男女差別、上下の力関係が非人間的に、理不尽に行使される時に、受け身では踏みつぶされ、攻撃的ではさらに強い力に負かされる、何も良くならない、じゃ~どうしたら・・・の答えがアサーティヴだったのでは、と憶測しています。

一人一人がアサーティヴだと(自他共尊すると)、上下関係は、組織のシステムと役割分担上はありますが、個人的な人間関係ではなくなります。目に見えない納得のいかない縛りもなくなります。私が、30年以上も前のことですが、イギリスに暮らして“なんて暮らしやすい国なんだ”と思えたのは、そこがアサーティヴな人達の社会だったから、でした。

 自分には自分の信念、価値観、好み、事情がある。他人には他人の信念、価値観、好み、事情がある。危害を加えるものではないかぎり、どちらが正しい/相応しいと比較/判断できるものではありません。 

1月20日 [草の根的メディエーションのつぼ]

すみません、ご無沙汰しています。雪遊びの疲れからはどうやら回復して、また元気が出てきたののですが、先にお話したWELLのリトリート(合宿)の準備で忙殺されています。遠く離れている者同士がコミュニケーションを取って、一つのものを作成しつつあるのですが、文明の利器の便利性と不便性を同時に痛感しています。その上、言葉と文化が違うというのも加わり、少々(いえかなり?)古くなっている私の頭はチョウー混乱しています。やはり、大事なことは顔を合わせて、・・・でも東京人と名古屋人が顔を合わせるのは容易ではありません。Eメールは大助かりです。瞬時に言いたいことを伝え、相手からも伝わってきます。でも、一方的なので、複数の人が同時にすると、返信を書いている時に相手または他者から追加や訂正のメールが次から次にはいってきて・・・話が混乱しまくります。締切が迫っていて状況が刻々とかわり、発表者と連絡を取ったり、皆夜遅くまでパソコンに向かって疲れ気味です。名前を間違えたりで、余計に混乱です。今週が一山です。私もこれからWELLの準備に戻ります。プログラムができたらこのブログでも紹介します。

・・・やはり、大事なことは顔を合わせて(コミュニケーションの重要性)、便利性に流されてはいけないと改めて感じています。

 


再度「沽券」と大黒柱 (12月13日) [草の根的メディエーションのつぼ]

メディエーションのつぼ:歩み寄りの姿勢/みんなの問題  

 

ノルウェイでのノーベル賞授賞式、ノルウェイと言えば、イスラエル/パレスティナ紛争で始めての和平合意を引きだした国ですが、日本人受賞者に、「kobayashi sensei, masukawa sensei ……」と日本語で挨拶したのには、流石だな~と、思わず家事の手を止めテレビに見入ってしまいました。しかも、十分に立派な日本語で、ずいぶん練習したのでしょう。外国から来たお客人の文化に歩み寄る姿勢が素適だと思いました。 ふと、気がつきました。沽券に拘るいわゆる「頑固」と言い表される殿方には、この種の歩み寄り部分がないのかも・・・。頑固が悪いという意味ではありません。もめ事を解決したい時に足枷となり得るので、どう対応したら良いだろうか、という観点です。 

 

思えば日本の父は、ずっと「一家の大黒柱」でした。大黒柱は動かないものです。何があっても、家を支えるためにどっしりと真ん中に立っていなくてならない存在です。これって納得じゃないですか? 父だけに限らず、母も家族を文字通り「支えなくては」、ふらつくと自分自身も崩れてしまいそうで、違うかもしれないと気付いていても必死に、「柱」を保とうとするように思います。 どうでしょう? こう、考えると、じわ~っとこみ上げるものがあります。日本人は家族のためにほんとうに一生懸命やってきたんだって。 なのに今、色々な問題が吹き出し、行き場を見出せない人がどんどん増えています。 

文明開化以来、どっと新しい波が押し寄せ、この短い間に日本人の暮らしぶりは形も中身も随分と変わりました。 でも、心の部分はそのスピードに付いていかず、取り残されてしまった、とよく言われます。私もそうだと思います。今は、男も女も関係なく外で働き、家庭でも仕事や育児の分担はそれぞれです。家もマンションなんかは各戸毎に大黒柱はなく、全体で支えるように設計されています。アメリカのオバマさんではありませんが、今こそ、日本人も変わる時なのでは? お父さん、お母さん、お爺さん、お婆さん、何でも独りで背負い込まずに、子供も混じえて皆で分かち合う、そんな新しい家族のあり方、いかがでしょう?  

始めて娘と和やかに合意! [草の根的メディエーションのつぼ]

メディエーションの壺:傾聴、言い換え、相互理解努力 

家族が3人しかいない我が家ですが、33様、まるで意見が合いません。飛んでる女キャリア・ウーマンの奔りだった母(私)はいつもバリバリと音が聞こえてきそうなほど事務的に理屈で攻めますが、さすがわが娘(19)、負けてはいません。興奮して必死に守りに入る娘に、「まずい、大人げない母」と何とか収拾をつけるというのがいつものパターンでした。「親は絶対に自分の価値観を押し付けようとする・・・」と、子供は口を揃えます。私なんかは特にその反対を心がけているつもりなんだけど・・・難しいですね。 で、今回は、思い切り気持ちを穏やかにと自分に言い聞かせ、否定的な表現をうまく肯定的な表現に「言い換えて」質問できた・・・ことで、娘の考えがはっきりわかり、その内容に私も同意できて、お互い心穏やかに納得、で終わりました。子供の言動に「間違った方向に行ったらどうしよう・・・」とこの母は神経質になりがちです。子供の口から出てきたとおりに取り、慌てることがあって、そこでよ~く聞いてみると良いのですが、忙しいとこちらの言いたいことだけ言って流すことが多かったと、反省しています。  

同じ日本人、同じ家族でありながら使う「言葉が違う」と感じています。言葉は文化ですから、その人の所属集団(社会)やその中で過ごす時間などの要素でずいぶん違ってくるのではないか、と。生まれて最初のうちは親と全く同じでも、幼稚園/学校に通い始めたりして少しずつ親とは違う社会に属するようになるわけですから、高校生、大学生あたりからはもう殆ど外国人に近いのではなかろうかと。渋谷言葉とか省略言葉などは私には通訳が必要ですし。 (例えば「今日は買い弁」を初めて聞いた時には「けんべん」の間違えかと、聞きなおしました。/ こんな川柳を耳にしました:デジカメの餌は何だと父が聞く。/ クイズ:「プロリン」とは何?ご当地キャラではありません。正解の方には景品を送ります‐2008年12月31日まで有効)   それと、言葉は生涯学ぶものなのかも。時代が変われば、表現する内容も変わる、即座に完璧に表現する、なんていうことはいくつになってもなかなかできないのではないでしょうか。それなのに、さらに今は昔のような大家族も少なく、小さい子も大きい子も一緒に遊ぶ機会がぐ~んと減って、テレビやゲーム、ビデオなど一方向で育つ環境で、余計に相互理解コミュニケーション困難症が多いのだと思います。 

「沽券」その2  [草の根的メディエーションのつぼ]

札幌市のバス廃止/復活問題をもう少し説明します―Aバス会社が運行している赤字路線について札幌市と交渉(接触/相談?)したがまとまらず、A社は廃止を決定。地域住民が廃止されては困ると怒りだす。その対応として、札幌市は、A社ではなく、Bバス会社で、新しいバスの購入などのために補助金を出し、路線を存続することにした。A社は「補助金が出るならうちで続ける・・・」、市民にしても「(今運行している会社で良いではないか)新しいバスを買う必要はない・・・税金の無駄使いだ」となり、結果、A社に落ち着いたそうです。私がニュースで見たのは、「市側にしてみれば一度は切ったA社に対する“沽券(面子)”から、A社ではなくB社に話を持っていったが、“税金の無駄使い”だと、(市民が)抗議している」場面だったようです。市側の最初の対応が甘かったと非難されたようですが、市内部の不透明性、情報や責任の所在の曖昧さが拍車をかけた一件だったようです。私的には、税金の無駄使いに堂々と抗議し住民の権利(バス路線)も守った市民の勝利に拍手。(青少年期のほとんどをすごした札幌は私にとって第二の故郷でもあります。)

「沽券」その3-武士は食わねど高楊枝 [草の根的メディエーションのつぼ]

メディエーションのつぼ:本音トーク 

江戸時代に入り戦が無くなり、リストラされ貧困を余儀なくされた武士たち、食事に事欠いても武士としてのプライドがあるのでお腹が減っていても、「満腹じゃ~」とこれ見よがしに高楊枝(たかようじ)今でも似たような話ありませんか?リストラされ職を失っても家族に言えなくて、「行ってきます」と朝いつも通りに家を出るおとうさん、さらに、何とか取りつくろうとサラ金に手を出しますますドツボにはまる・・・。正直に言えても、次の職が簡単に見つかるわけではなく、家で肩身の狭い思いをしているおとうさん―きっとプライドも傷ついていることでしょう。家庭内暴力に発展の危険性があります。さらには家族を気持の上で背負いきれなくなって、蒸発、ホームレス、自殺。 企業戦士のみなさん、お腹が減ったら「お腹が減った~!」と叫んでください。企業のみなさん、その声を聞いてあげてください。戦士あっての企業なのですから。

沽券とは本来は“値打ち”の話のようですし、人としての値打ちや品位を保てたら良いな~と、私も思います。ですが、昨今の偽装流行り、いつの頃からか“値うち”の中身もすり替わってきたように思うのですが? 

ちょっと話が重たくなりますが、「死刑」なのだけれど、武士の面目を保つとして自殺させる「切腹」。本音は死にたくない、でも拒否は見苦しいとされ、自殺を余儀なくされる場合が多かったのでは?戦争中/終戦で、敵兵から屈辱を受けるより自害をと、自殺を強要された/選択した乙女たち。本来平和志向(だと私は信じている)の人間に、「名誉なことです。おめでとう」と渡され、少なくとも戦争後期、現実を理解し始めた国民は“いやだ~!”の本音を押し殺して「ありがとうございます」と受け取らなくてはいけなかった「赤紙(戦争への召集令状)」。 

本音を出してはいけない過酷な時代を経て、今「命が何よりも大事、かけがえのない自分を大切に」と子供たちに声高に説きながらも、日本人の文化として、何より大事なものとしての「沽券/面子/プライド/名誉/忍耐」が今も結構、私を含めて多くの人々の心に根付いているのではないでしょうか。ですが、その中身は今の時代にはそぐわない、人としての品位を考えると必ずしも伴っていない、履き違えるているかも、という場合も多いように思います。 


教員にだけはなりたくなかった [草の根的メディエーションのつぼ]

メディエーションの壺:今までと同じなら、今までと同じ結果しか得られない 

学生時代、自分でも何故なのかわからないままに「絶対教師にはなりたくない」と頑固に教職を拒んだ理由が、最近になって見えてきました。メディエーションのテーブルでは「Top down(上から下へ)」の関係はありません。日本では、見た目にも先生は教壇と言って一段高い所に立ちましたし、「教える」というのはtop-downの関係ではありませんか? 子供心に生意気にも私には「下(down)」の立場に置かれていることへの反発があり、一段高い位置に立つことへの嫌悪感だったようです。今も、英語を教えるのではなく、主体は学びたい人にあり、私はあくまでもヘルプであるという立場を取っています。それはメディエーターの立場でもあります。 

ところで、それほど嫌った教師ですが、務めていた会社を辞めて塾の英語の先生をしたことがあります。

 

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沽券(こけん)/面子 [草の根的メディエーションのつぼ]

8月23/24日に行われたピア・サポート学会に出席するため訪れていた札幌でのこと、北海道中央バス/北海道JRバス/札幌市の間で、19億円のお金(税金)が絡む、バスの路線廃止と存続の問題が起きていました。そのニュースでのやり取りの中でどなたかが、「沽券の問題ではない、税金が使われる・・・」と発言されていました。「男の沽券に拘る・・・」は時に頼もしく響く言葉ではありますが、対立が発生した時には厄介で、日本人のケースでのメディエーションの難しさの一つはこの「沽券/面子」ではなかろうか、と常日頃思っていました。特に少々古い時代に生まれ育った殿方にこの沽券を大切にする方が多く見られるように思いますが、いかがでしょうか? 沽券が問題解決のネックとなっているとき、どのようにアクセスしたら効果的なのか、私の課題の一つです。ちなみにオーストラリア人の私の師匠は「土台になっているのは家族(何か)のために責任を感じてのこと・・・」と教えてくれましたが、どうなのでしょう?良い知恵を貸していただけないでしょうか?
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