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べてるの家-1 [草の根的メディエーションのつぼ]

「べてるの家」というのが北海道の浦河という所にあります。精神障害を持つ当事者と地域の有志によって1984年に開設されたとてもユニークな試みを実践している社会福祉法人です。
随分前ですが、三冊の本を紹介しようとして一冊で終わっていたのですが、2冊目は「べてるな人々」向谷地生良(ムカイヤチ・イクヨシ)著でした。この本と「べてるの家」を紹介しようと思ってから、もう1年以上経っていまして、その間にも、彼らはどんどん進化を続け、東京池袋にも拠点を持つまでに発展しています。現在は大学でも教えていらっしゃる著者の向谷地さんは当初からソーシャルワーカーとして関わっている方です。 

その本に、「統合失調症は、人間の持つ『五感』に変調を起してしまう病気である。その中で起こる幻聴は、当事者の日常にあっては、決して『幻』ではなく、『“現”聴-現実に聞こえている声』なのである。」「世界で唯一(?)の浦河名物『幻覚&妄想大会』で幻覚と妄想のユニークさを称え表彰する・・・」と書かれているように、 徹底した肯定姿勢を実践する彼らに、同じように「あるがままを良し」として肯定的な流れに持って行こうとするメディエーターの姿勢が重なります。 

控え目、謙遜、謙り・・・何かと否定的な姿勢を「美」としてきた日本文化の陰で、意図してか、それとも無意識なのか、力の強いものが、その力で、正義も真実も捻じ曲げる事が少なからずある社会実態の中で、自分をどんどん追いつめて、自分を肯定できなくなってしまった人々。
これまで関わってきた私の周りの人々や、相談者さんに向き合ってきた中で、自分をわかってもらいたいけれど、「わかってもらえない」・・・自分は「良く思われていない(白い目で見られている)」・・・「悪く言われている」・・・から、幻聴、妄想へと発展していく過程は容易に想像できます。
アメリカの統合失調症を扱った番組でさかんに「confusion:混乱」が出てきましたが、日本語字幕では「妄想」となっていました。 実際もめ事の深刻度と当事者さんの混乱度は比例しています。 
当事者さんに精神疾患がある場合はメデイエーションはできない(難しい)とされていますが、コミュニケーション障害から来るうつ病患者さんにはむしろ有効なのではと感じています。 さらに、メディエーターは当事者さんの混乱を整理するお手伝いをするものです。 何か問題が起きた時に早期対応できれば深刻な病気にならずに済むとも感じています。 

kmk的用語辞典:ミュニケーション障害。言えない/言わない/言わせてもらえない(cant speak/wont speak/not allowed to speak out

 


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言えない空気 [草の根的メディエーションのつぼ]

第2次世界大戦中の日本軍「従軍看護婦」をテーマにしたルポを見ました。「憧れの日赤の看護婦になり、鼻高々、人の役に立ちたいと希望に溢れて中国満洲の病院に赴任した」Aさん達。「病院は高い塀で囲まれ完全に隔離され、塀の向こうで中国の人々が悲惨な暮らしを強いられていたことなど知るよしもなかった。」そこでの彼女達の仕事は「看護だけではなく、生体解剖や安楽死の手伝いもあった。 看護の仕事も、壊れた機械を直してまた戦場に送る工場のようだった・・・」とAさんは回想していました。

生体解剖を行った際の状況を語った時に、Aさんから「私たちは言われるままにするだけ。質問は許されなかった。」の発言。そこで質問することは上司や体制に異論がある=立てつくこと、で、露骨に陰惨な制裁、今風に言うなら “苛め”を受けたのです。 “悪いことをしていると認めたくない力のある側”は、“言わせない”ことで、“力の弱い立場にある人々”を縛り、自分を正当化しました。人々は自分が社会に生き残るために、あまんじてその“空気を読む”しかなかった。日本社会では、不幸にも、戦後もその“言わせない”空気を利用して人をコントロールする形が根強く残ってきたので、縦社会の日本では“はっきりさせられない空気=言えない空気”は今だに主流です。

メディエーションでは、いかに当事者さんに公平に“言ってもいい”“言った方がいい”空気を感じてもらうか、が鍵と思います。メディエーションを生業とするメディエーターが“言えない”なら普通の人はもっと言えません。理屈を理解しているだけではなく、自らがメディエーションのコンセプトを実践している、もしくは実践しようとする姿勢のある組織/人が真にメディエーションによる解決ができるのでは、と感じています。      (・・・で、そう言う自分はどうなの・・・う~ん・・・まだ修行が足りないかも)

 


告白します―追記 [草の根的メディエーションのつぼ]

カテゴリーを「草の根的メディエーションのつぼ」に変えました。 

私の中で彼女のことはいつまでも気にかかっていて、決して頭から消え去ることはありません。 「許してもらいたいとは思わない」、正確には「許してもらえないこともある」です。 『許して欲しい、謝りたい』は私側の事情です。 それで相手も楽になるならいい。ですが、実は私には別の人とのことで「決して許せない、許したくない」ことがあります。私は相手の人にそのことには触れられたくありません。深い悲しみが蘇り、傷が痛み出すからです。 私自身が自分のその痛みに堪えられない。なので、彼女が私に対して心のドアを2枚貝のように硬く閉じたと感じた時、それ以上ノックするのを止めました。

私は自分の傷を癒すためにこのメディエーション活動をしているのかもしれません。 人は色々な状況と事情が重なりあって、本来大切に思う人を傷つけてしまう。 「成せば成る」は違う、世の中「どうにもならない」こともある、と常に肝に銘じています。 それでも、もし、どうにかなる可能性があるなら・・・どうにかなって欲しい、心の荷物を降ろして楽になって欲しい。 心の傷の痛みを思いやるメディエーションは打って付けの手法だと思えます。


告白します [草の根的メディエーションのつぼ]

自分の頭の中では充分に色々考えたすえに、いえ、色々な思いが噴き出して、相手に対して突拍子もない第一声を発する、という非常に情けないことが、私にはよく起こります。自分が恥ずかしいだけならいいのですけれど、その一言が相手に対してとてつもなく失礼だったり、傷つけたりするから困ります。 「女の子なんだから」「男の子だから」の類の差別用語にうるさく反応したり、職業や地位にランクをつけるような価値観に異を唱えていながら、育ってきた環境の中で刷り込まれた社会通念的な価値観がポロっと出たりする。例えばどなたかのお子さんが聞いた事がない◎▽○大学にいっていると聞くと、条件反射的に「なんだ、たいしたことない」と頭をよぎる・・・とか。 気を付けようと努力はするけれど、なかなか変われない。以前はそんな自分が嫌で、いっそ気がつかなければどんなに楽かと、嘆いたけれど、今は、気がつくからメディエーターに向いている、と肯定的に解釈しています。 当事者さんには相手が勘ぐるほどの悪気はなくて、ただ私のように言葉の使い方を間違えたり下手くそなのだ、と理解できます。 と、開き直ってはいますが、最近またやってしまいました。いつも、慌てることなく理路整然とした物腰の友人がいます。彼女のようになりたいな~。 

ところで、始めて自分の軽率な発言を思い知ったのは、まだ30前後の頃、海外店での勤務を終え帰国し、住まいを札幌から東京に移してすぐのこと。 私の頭と心には色々な思いが交錯し、苦しみも抱え悩んでもいました。それでも、さっそうと風邪を切って歩く私でしたので他の女性達から憧れの目で見られて調子に乗っていたのかもしれません。 ずっと私を支えてくれた、私が一番大切に思っていた友人に数年振りに逢いました。彼女との出会いが有ったから今の私がある、私にとっては恩人とも言えるような人です。明るくきらきらと輝く太陽なような人だったのですが、その時の彼女は、何か苦しみを抱えているようでとても幸せそうには見えませんでした。私の中で自分への思いと重なったのかもしれません。彼女に何が有ったのかも知らないのに、私の口から唐突に出た「自分を大切にして欲しい!」の発言に彼女はぎょっとして、それ以来口を閉ざし、二度と私とは向き合ってくれなくなりました。 彼女は深く深く傷ついたようでした。 私はちゃんと説明したいと思いましたが、それ以上の接触や弁解は彼女の傷をさらにえぐることになると感じて、諦めました。 許して欲しいとは思わない、ただ、彼女が幸せでいて欲しいと願っています。


「庭から広がる暮らし」本の紹介-その1 [草の根的メディエーションのつぼ]

小さい文字を読むのが辛くて暫く活字離れしていた私ですが、珍しく、リビングのテーブルに3冊の本を置いています。  置いて眺めている・・・時もありますが、今とても興味をそそられる3冊です。

 「庭から広がる暮らし・仕事・自然 オーガニック・ガーデン・ブック」曳地義治・曳地トシ著  このブログに以前、うちのバルコニーの雨水利用自動潅水プランターのことを書きました。作ってくれたNPO法人グリーンネックレス(武蔵野)の方々が見学に見えた時に、プレゼントしていただきました。  いのちのめぐる庭 と題した前書はこんな風に始まりますー「時には芝生の上でお弁当を広げてみる。鳥や風の音を聞く。いろいろな虫と遭遇する。緑と言っても絵の具では言い表せないほどの色がある。どうも植物にも考えがあるらしい。いつもよりちょっと深呼吸してみる・・・。これらは植木屋になってからお客さんの所で知った庭の楽しみ方だ。庭仕事にまったく縁のなかった私達が、ひょんなところから植木屋になり、すっかりはまってしまった原因は、ここらへんにあるのかもしれない。」 

今まで目にしたオーガニック・ガーデンについて書かれている書物は、私にはちょっと力が入り過ぎで、そこまではできない、したくない、と思うのですが、曳地義治さんの語り口は自然体で、す~と入ってきます。特に興味を持ったのはカナダで体験されたという老人ホームでの園芸療法のお話です。庭のあり方も、徘徊する人が施設の外に出ていかないように工夫された散歩道とか、「落ち着きたい」という人の心理を考えて置かれたベンチとか、痴呆だったお父上がベッドに縛り付けられて非人間的な有り様を強いられていたことを思うと、感動だったとか。  結婚後しばらく夫婦別姓を通したそうで、社会での夫婦別姓の認知度に触れ、「法律よりも市井の人々の方が進んでいる・・・」とあったのが妙に納得しました。 


怒らないこと [草の根的メディエーションのつぼ]

我がメディエーションの友からこんな便りをもらいました: 「『怒らないこと』という 仏教関係の本を読みました。その本の中でもまさにメディエーションに通じる記述がありました。相手の怒りや言うことにとらわれずに、問題だけを取り出して解決する。
自分の立場や都合、意見は捨てて 一緒に解決方法を編み出す姿勢でいれば 相手の怒りもおさめることができる、・・・。」 でも中々難しいと、その友は結んでいます。


“怒り”は動物の生理現象なのではと思っています。「怒るな」というのは、トイレに行くな、と言っているようで、普通の人が本当に怒らなくなったら、そろそろ、次の世に呼ばれているのかもしれない・・・なんて、思い当たることがありました。

話が飛びますが、ガチンコになると、つまり「自分の言い分は絶対正しい、相手は間違っている」に発展すると、お互いに引けなくなります。そうなる前に、こちらがとりあえず力を抜くと、相手の力は合気道の時のように拍子抜けします。綱引きでもイメージできるでしょうかーこっちが引っ張るから相手も負けじと引っ張る、こちらがその手を放すと、相手は引っ張る意味がなくなります。

しかしながら、怒りを感じてから力を抜くというのは、こちらはその怒りを押し込めて我慢するわけで、トイレを我慢するように、本当ならはき出したい何かが溜まります。結構しんどいし、エネルギーを使います。相手が強力だと、我慢する量もエネルギーも余計にかかります。  
溜まったものはどうしてくれるの? 自分を褒めてあげる、ご褒美をあげる、そして いつか、相手が変わってくるのを感じた時に、ほんとだ~、うまくいくものなんだ~、と報われた気持になる・・・そんなことが何度かあると、段々深刻な対立は避けられるようになる・・・今のところの私です。


トイレで食事!?(枠3‐しばり) [草の根的メディエーションのつぼ]

(さらに続きです)最近の学生さんの中には学食で昼食を1人で食べることができない人がいるとか。 誰にも見られないようにトイレで食べたりするのだそうです!!!  あの人お昼食べないのかな~、お腹が空かないのかしら、と思っていると実はその人は“占有個室”で何かしら口に入れて空腹を満たしていた、というような感じでしょうか。 「トイレが汚いとかよりも、一緒に食べる友達がいないと思われるのが嫌」なんだそうです。一緒に食べる友達がいないことは・・・恥ずかしいこと、 駄目な人間、という文化が学生さん達の間でできているようです。 

一体どこでそのような「枠(縛り?固定概念?)」が作られたのでしょう?幼少期から“個性的”だった私は、ずっと「駄目」レッテルを貼られてきたのですが(誰に?・・・まぁまぁ)、良い子の皆さんだって、「それじゃぁ駄目」だの「そんなのは恥ずかしい」とか、あまりに頻繁に普通に使われるので意識していないくらい耳にしているし、自分でも言っていると思うんですけど、どうでしょう? 試しに是非意識してみてください。

臨機応変(枠2) [草の根的メディエーションのつぼ]

(前の記事の続きです) 日本人は枠をはめるのが好き・・・なわけではないかもしれませんが、日本ほど枠をはめて自らを縛っている社会は他にはそうはないのでは、とずっと思っていました。 多分、過去の終身雇用だの永久就職(女性にとっての結婚)だので生活が保障され安定した時代には、枠をはめて「みんな一緒で一つ」であることが生きやすかったのだと思います。(私には息苦しかったですが。)  ところが、ここへきて社会情勢は大きく変わり、個性や自立を求められ自己責任を問われるようになる一方で、人々の意識はその変化に付いていかず、引き続き大して重要とも思えない枠や理不尽な枠で自分の心や暮らしを縛り、ひたすら辛抱しようとするのだけれど、流石に息き苦しくなってきて大なり小なりの支障が表面化してきている、と思えます。

 話がちょっと逸れてしまいました。言いたかったのは、メディエーションでは遠慮なく枠をはずすべきであろうということです。 APMFで習い納得したメディエーションの要点の一つに「メディエーションには紋切形はない」というのがあります。確かに基本は大事で決して無視するべきではないのですが・・・、ですが、考えてみると、何故メディエーションなのか?の答えは、メディエーション手法が争う人々の関係を“敵対から共存へ”という持続する平和的な関係へと改善でき得るから、ですよね? みんなができるだけ気持ちよく暮らせるように、そのために納得のいく話し合いの場を作り合意を目指す、その目的のためにメディエーションがある、ということで、メディエーションという形(枠)が有って、そこに自分や当事者さんをはめ込むのではない、ということなんです。 だから、個々のケースの対応はメディエーションの基本姿勢をしっかり踏まえた上で、臨機応変、ケース・バイ・ケースであろう、と。  

枠を外す [草の根的メディエーションのつぼ]

メディエーションの特徴(の一つ)は、何か問題が起きて行き止まり"デッドエンド"になってしまったときに、今までと同じでは今までと同じ結果しか得られない、つまり解決できない。何かまったく新しい発想が必要、ということで、とにかく今までの枠に囚われない思考の柔軟性が要求されることだと理解しています。 なのでメディエーターのトレーニングにはブレィン・ストーミングが含まれる、と。 もしも、今、士業の方にメディエーションの理解と実践に苦しんでいらっしゃる状況がお有りならば、原因の一つはその目には見えない枠の存在かもしれないと憶測しています。 メディエーションが私の天職だと思える理由の一つは、小さい頃から「変わっている」だの「常識というものがない」だの言われた私には最初から「枠」というものがなかったようだし、「枠にはめられる」ことを極端に嫌ってきたので、努力しなくても「枠に囚われない」という状態をイメージできることです。(「思い込み」は多々ありますが・・・。)

日本社会がかもし出す枠の強靭さは相当なものです。どんなに「変わっている」私でも、そう簡単に突き破ることはできないので、やっぱり普通に空気を読む事なども学んでいます(・・・まだまだ修行が足りていないようですが)。


アサーティヴ:自他共尊・・・続き [草の根的メディエーションのつぼ]

(前の記事の続きです。) 

何故、この話が草の根的メディエーションのつぼなの?  メディエーションの、というよりメディエーターの、というべきでしょうか。人は誰でもその基本的人権を擁護されるべし、平等の権利を有す、と日本国憲法も認めています。アサーティヴとは自他共尊、自分から見て、相手(他)が誰であっても、子供であっても、ホームレスであっても、掃除のおばちゃんであっても、その人(権)に対し、同様の敬意を払うということなんです。

そして、自分はというと、・・・“一生懸命に生きていない人”なんているでしょうか?・・・ 自分は自分で頑張っていると認めてあげる、自分で自分を貶めないで、社会がどうあれ、せめて自分だけでも自分を可愛がってあげる(そうして欲しい)・・・ということです。

 

どうでしょう?縦社会がしみ込んでいる日本に住む私たちには難しくないですか?気持ちの上では理解していても、実際には言葉のはしはしに本音(?)が出ていませんか?受け身教育を受けてきた日本人は、自分より色々な意味で力が上と思われる相手のちょっとしたaggressiveness(攻撃性・支配性など)に反応する(負ける)傾向にあります。

このアサーティヴ(自他共尊)は、特に子供のピア・メディエーション・トレーニングや親子/家族の問題で重要なキーであると感じています。「パワハラ系苛め」なども、厳しい縦社会で生き抜いてきた(または負け続けてきた?)方々と、新しい時代の教育を受けながらも変わらぬ社会の現実があり、そのギャップを消化しきれない方々との間に起きる問題ではないかと、と憶測しています。

 

昔の話に戻りますが、当時、日本では貧乏は恥ずかしいことで、額に汗水たらし働く肉体労働者は見下されました(・・・今でも?)。お金持ちさんは見るからに高級そうな服を身につけてお金持ちであることを誇示しているように見えました。イギリスに住み始めて、会社の同僚の若いイギリス人スタッフのお父さん、貧しいながらも、労働者であることに(ある意味その分野の専門家ですから)誇りをもって暮らしていると、感じました。 ゲートから家まではるかに遠い貴族系お金持ちさん、ゲートに迎えに出てくれたのは普通のよれジーパンを履いた普通のおじさんでした。(因みに、この方は私の知りあいではなく、私のフラット・メイトのお知り合いでした。)  

・・・昨今、私の大好きなイギリスにもグローバル化の波が押し寄せているようではありますが・・・。


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