ソロモン諸島のケース [2006年APMFフィジー大会]
ⅰ)1998年に始まる武力紛争の当初には、フィジーの場合と同様に、キリスト教の教会を基礎にした女性組織で結成するNCW(National Council of Women:全国女性協議会)が指導的な役割を果たした。すなわち、NCWは、両方の武装グループに対して、直接に平和を求める申し入れを行うとともに、両方の武装グループに食糧を配った。さらに、首都で対立する先住民と移民との両方のコミュニティの女性たちによびかけ、それぞれのコミュニティの女性たちが、前線のチェックポイントまで出かけ、敵対するコミュニティの側の武装グループに食糧や生活物資を差し入れるという活動を行った。NCWの呼びかけにこたえた首都の女性グループの中には、家で自分の夫や息子が武器を身に付けるのを見て、武器をむりやり取り上げるもの、さらにはそれぞれの戦闘集団の陣地を訪れて武器の放棄を説得するグループも現れた。
(ⅱ)2000年6月のクーデターは、それまでの武力紛争にないほどの大規模な武力衝突になり、多くの人々が武装グループの人質になった。この状況に対して、女性たちは、より強力な組織、WFP(Women for Peace:平和を求める女性たち)を結成した。WFPは、それまでのNCWの枠をさらに広げて、カトリック教会やメラネシア聖公会(Church of Melanesia;Anglican Communionのひとつ)のシスターたちも含め、できるだけ多くのさまざまな立場の女性が、政治や宗教やエスニックな立場を超えて、平和の意志を表明し、そのためにボランティアで活動する女性たちのネットワーク組織として、急速に成長した。
WFPは直接に、紛争当事者の両方の武装グループと接触するばかりでなく、教会やNGO、コミュニティリーダーやチーフたち、さらに共和国政府や国際組織との共同作業を積極的に追及して、紛争被害者の救援と、平和への世論作りのキャンペーンを行った。すなわち、WFPは、毎週、祈りの会を行い、平和を願う女性達の声をマスメディアで中継して国中に流すといった活動、さまざまな人を集めて議論する場を作る活動も行った。必要物資を携えての病院や難民避難所訪問も頻繁に行い、地域コミュニティに展開した若い兵士たちに対して、家庭に戻るように説得した。
以上のような武装紛争終結に向けた女性たちのダイナミックな活動について、氏は、ソロモン諸島の女性の人権・平和運動の活動家アフ・ビリー(Afu Billy)の次のようなことばを紹介した。「家の中でも外でも、暴力が奮われる時、女性や子供たちは必ずその犠牲者となる。家族がちゃんと食べていけるか、安全に快適に暮らしていけるか、子供が怯えてはいないかと気を配り、何かことが起きれば安全を確保しようとするのは、母である女性たちだ。男性は女性とは違うレベルで物事を考える。平和へのプロセスには男性だけではなく女性の参加なくしてはありえない。」
この地域でのジェンダー役割が逆に、武力紛争に際して、女性たちに独自な役割を果たす可能性を与えるという発言を受けて、ロールズ氏はさらに言う。「女性は、紛争解決のための公式な場を与えられていないが、妻として、母として、娘として、武器を手にする者を諌めることができるはずであり、平和へのプロセスは家庭から始めることができる。ソロモン諸島のケースは、このような女性の力を示すものだ。」
(*1)ソロモン諸島共和国は、1978年に、イギリス女王を君主とする立憲君主国として独立した。1998年、首都のガダルカナル島ホニアラで地元住民によるマライタ島出身者襲撃事件が起こる。首都ホニアラでは、公務員を始め、給与所得者の多数は、マライタ島出身者であり、ガダルカナル島住民はそのような状態に不満を抱いていた。事件をきっかけに、さらに大規模なマライタ島出身者襲撃が起こり、約1万人のマライタ系住民が難民キャンプに避難。政府は、英連邦に支援を要請した。しかし、マライタ島出身者が武装集団MEF(Malaita Eagle Force;マライタ鷲軍)を結成し、ガダルカナル系武装集団IFM(Isatabu Freedom Movement;イサンタブ解放運動)と武力衝突するに至り、紛争は泥沼化。2000年6月に、MEFによるクーデターが発生。首相は退任を余儀なくされ、新政権が発足、タウンズビル和平協定をもってとりあえず終結した。
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